「野辺地戦争」
野辺地戦争をご存知でしょうか
戦争といえば、大規模なものを想像してしまいすが、
野辺地戦争は地域紛争のようなものだったそうです
この戦争の原因は
幕末期の、鳥羽・伏見の戦いに始まり、箱館戦争に終わる戊辰戦争のうちのひとつの争い
ほぼ新政府軍側の勝利が確定したころに、
弘前藩が、盛岡藩にしかけた戦争
結果から言うと盛岡藩が勝利しています
もう少し詳しくみてみると
明治元年(1868)、9月22日から23日にかけ、
小湊ロを守備していた官軍弘前藩と黒石藩の兵180人が
盛岡藩領馬門村に火を放ち、野辺地村を夜襲しました。
これに対するのは
八戸藩からの2小隊を含む400名の盛岡・八戸藩連合軍
(弘前藩が攻めてくる恐れがあるとして7月16日に配置)
その後、野辺地川の大橋付近で戦闘
はじめ盛岡藩側は劣勢だったそうですが
奮戦により弘前藩兵を狩場沢に退却させたそうです
この戦は長くは無く1日のみでした
盛岡藩側の損害は少なかったのに対し、
弘前藩側の死者は、数十名となっています
なぜ、大勢が決まったあとに弘前藩が戦争を起こしたかは、
詳細はわかっていないようですが、
一説には弘前藩の微妙な立場があったものとされています。
弘前藩の津軽家は初め、
大浦と称し、大浦為信のとき津軽地方を統一
天正18年に豊臣秀吉より父祖伝来の所領の所有権を認め,保証されて
以後、津軽と称していますが
弘前藩は初代為信以来近衛家の一門であることや
藩主の津軽承昭は九州の細川家の出身であり
近衛家の六女と承昭が婚約中、
しかも
この諍いの前
京都から津軽家に宛てて親書、朝廷からの令書が届けられ
弘前藩は官軍につく事を決めたようです
途中から同盟側から官軍側に立場を変えた弘前藩ですが
同盟側からは裏切り者とみられ、
官軍からは、まだ同盟側と通じているのでは?
と思われ
そこで、官軍側としての戦績を残し
藩としての意志を示した。
そんな背景があったのだそうです
最初に少し触れましたが
弘前藩はこの戦に敗れています。
野辺地戦争は官軍側唯一の敗戦なのだそうです。
何れにせよ、痛ましい史実です。
青森県野辺地町。
県道243号線に面したところに、野辺地戦争戦死者の墓所があります。
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記事編集/鈴木勇(グローバルキッチンサイゴン所属)