少年時代
孫内あつしの過ごした青森とその時代
1
クレヨン画

クレヨンは本来重ね塗りはしない。
だが、重ね塗りする事で、独特の色が出てくる。
28本のクレヨンの色が何色にでも広がるのだ。
それぞれの持つ色は独特で決して混ざり合うことなどない。
本来、クレヨンはそれぞれ独立した色であらわすもの、
しかし、重なり合っていくことで確かに独特の色合いが出てくるのだ。
下地にある色は消されているのでは決してない。上塗りした色に明らかに影響を与えていく。見えない色合いは確かにそこに在り続ける。

それは誰も行うことがない画法。

長く描き続けるなかでも自分でも予想のしない、いろんな色との出会いもある。細密に描くことは難しいにしてもクレヨンの持つ優しいその色合いが魅力だ。とても柔らかな色合いが人の心にひろがっていく。

酒を売る生業をした事も有るが、その色がどんな美酒よりも酔わせてくれる。そんな事を最近あつしは思う。

青森の廃校を再利用した施設‘おもしぇ学校’で画業に励んで今年で五年が過ぎ去ろうとしていた。
このところ、冬以外はおもしぇ学校で寝泊りしながら創作活動をしている。

東京にいる妻や子供たちを別に、ひとり信じる絵を描き続けている。

思いもよらないパーキンソン病の発病、それを押しての画業継続、そのことに後悔などありはしない。

東京に自分を信じついてきてくれた妻もそのことは理解してくれているはずだ。

ただ一人、己の心の中にあるもの全てを描き切る。

妻もそれを望んでくれている、そんな想いも心の中に無いわけではない。

日中は絵を描き、訪ねてくる人と話もするので気が紛れもする。だが問題は夜である。誰もいない廃校の教室のアトリエに仮設した寝床で独りの夜、想うのは東京にいる妻や子供たちの事だ。

孤独から拡がっていく様々な募る想いすらもさらに画業に向かう見えない力を与えてくれる。絵を描いているといろんなことが帰来してくる、そしてその全てを絵の中に込めていくのだ。
青森を離れて東京に旅だったのが51の頃の事である。

上京するときに所持した金は20万。

青森でのそれまでの自身のすべてを清算して東京に向かったのだ。

これといった決められらた生活の足がかりなど無いままの決意の上京であったため、ひと月近く滞在していると持参した金もほとんど底をついてしまった。

落ち込んでいてもどうにかなるものではない、そんな気持ちで向かったのは銀座だった。

銀座はその時代の、最も勢いのある商売が出店する街、そんな銀座が以前から好きだった。歴史に名を残す店が連なる街並み、銀座にお店を構えていることは一種のステータスシンボル、そこを歩くことで自分が今東京にいることを確認したかったのかも知れない。活気のある街を行く当てもないまま、ぶらついていた。

無心にたくさんの人とすれ違い歩いていると、足下に絡みつくものがあった。読み捨てられた新聞紙だった。まさか、そんなことがあるはずもあるまい。探していた働き先が見つかるわけなどあるわけなど無いだろう。あつしは取り上げて、苦笑した。まさかの求人広告、それも探していた日本そばの店の求人、店名を見てあつしはさらに驚いた、その店は銀座のど真ん中、服部時計店の真ん前にある老舗のそば屋の求人だったのだ。

皿洗い求む。

狐につままれる。そんな気分のまま、電話してみた。

募集はすでに決まっている。

電話の向こうの主は淡々とした、東京弁で答えた。

予期したこととはいえ、あつしは落胆した。
しかし、その落ち込みぶりが電話の向こうにも伝わったのだろうか、電話の主はそれであつしに興味を持ったようであった。
何事か受け答えして、あつしは自身の出身が津軽であると答えると、電話の向こうの人物はしばらくの間沈黙した後、意外なことを言った。

「そういうことでしたら、一度履歴書を持ってお店に来ていただきたいのですが。」

あつしは己の耳を疑ったが、言われるまま、約束を取り付け、その蕎麦屋に出向いた。

電話の向こうの、その人物と向き合い話をすると、驚いた事にすんなりと就職が決まっていた。

後々に聞くところによると、先に決まっていた者は素行の未熟さ故に不安もあったが、青森生まれのものならば辛抱強いに違いあるまい。そんな風に思った事を打ち明けられた。

故郷を離れながらも故郷に救われたのだ。この時の事を思うと、あつしは運命の不思議を感じる。

その後、銀座の一等地の蕎麦屋は壮絶な忙しさではあったが、なんとか自身の東京での生きる糧を得、東京での画業を始める基礎を築いた。

仕事をこなし、空いた時間は全て絵の時間にあて、そして世にでるチャンスを探し続けた。

人生の後半を迎え、その時が自分にとって最後のチャンスだと思った。振り返ってみてもその選択に間違いなどありはしない。

あれから、もうすでに25年以上の月日が流れている。

東京に行けば何でも欲しいものがある。何でも揃っている。そう思っていた。東京に行けばすべてが変わる。そう信じていたのだ。
東京に行ってわかった事、確かに東京には全てがある。それは間違いない。全てが揃っている。

だが常に自分が描いていたもの、それは少年の頃の故郷の自分の中にあった思い出の心風景だった。青森に住んでいた頃は当たり前のように心の中にあったもの、故郷を遠く離れたことにより、もやもやとおぼろげだったものが心に浮き上がっていき、日を追うごとにハッキリしていった。

何が自分を絵に向かわせているのか、その事が東京に行く事により自覚できたのだと思う。あの時、東京に向かった自分の直感は間違いない。故郷の山の中、いま独り毎日キャンパスに向かい、悟るのは旅の目的地は常に自分の心の中なのだという事だ。それは旅出つあの日には思いもよらないことだ。人生は振り返ってみると本当に粋な演出を施す。命を燃やし、そして今を生きていく。それは津軽に生まれた自分の性なのかも知れない。様々な想いが帰来し、あつしは窓の外の闇から拡がっていく心の風景をただじっと眺めていた。

2
森紅園(しんこうえん)

青森の雪は想像をはるかに超える。これでもか、これでもかというように空から雪が降って来る。辺りは全て雪に覆われて、何もかもが雪の下に埋まってしまう。昭和20年(1945年)の冬はいつもの年にもましてひどい雪、80年来の大雪であった。そのせいか、春には長い冬が終わった子供達の喜びもひとしお、その日の早朝も、あつしの呼び出しで仲間数名が集まり、森紅園の前の大通りで野球をやろうとしていたのだった。

「あつしちゃん、アレ見て」

兼平のおかず屋の息子カネが指さす方を見てみると、森紅園の納戸の引き戸がそろりそろり開けられた。早朝の5時半をまわった頃合いの時間でそろそろ空も白んできている。

みると、寝巻き姿のオンナの人が旦那衆を送り出しているところだった。
あつしは一瞬だけそのオンナと目があったが、オンナはあつしのことを少しだけ見ただけで旦那衆に、また来てくださいませなどと言っているのが遠くにいても聞こえてきた。

「泊まったんだべがあの旦那さん」

カネが言った。

「泊まったに決まってるべな」

あつしの二軒向こう隣で一番の年長の松が真剣な表情で答えている。

「んだべが、でも何やってらんだべな〜」

カネが松に尋ねていたが、松はモジモジしている。

「なあ、朝まで何するごとあるんだべ」

カネがしつこく、また誰とも無くつぶやいたので、あつしが、吐き出すように言った。

「どうせ、はんかくせごとしてらんだね。はやぐ、続きばやるべ」

早朝の森紅園にあつしのその声が響きわたった。

少し離れた妓楼(ぎろう)の前の客とオンナもあつしの方を同時に見た。

旦那衆はバツが悪そうにしながらもオンナと話しを続けていた。

あつしの声がけで又、野球が始まっていた。打者の打った球が向こうで話をしていた二人の方まで転がっていくと、オンナがその球を拾うとこちらに投げ返してきた。

あつし達は軽く会釈をすると、にっこりとオンナが笑顔を返してきた。笑うと幼くみえるその笑顔が何故か心に残った。

オンナは男衆のところに戻ると、男衆は急いでオンナの人に何か渡すとあつし達の横をそそくさと通り過ぎ歩いて行ってしまった。オンナはこちらをちらっと見ると森紅園の妓楼にそのまま消えて行ってしまった。

「あのオンナの人、娼妓(しょうぎ)だべが」

カネは好奇心が旺盛だ、あつしに尋ねた。

「わがらねじゃ」

あつしはいちいち尋ねるカネに知らぬふりで答えた。
当時、娼妓(遊女のこと)は妓楼から金を借り、年季奉公という形で働かされていた。しかしながら一定の年限を働いても郷里にほとんど帰ることは無く、年季を明ける率は極度に低いものであった。まして、娼妓達の多くは貧農出身者が多かったので、遊女を購(あがな)った金額を実家が返却できる様な事は非常に稀であった。結果、大半の遊女は生涯を遊廓で終えていた。この背景には農民層の貧困が存在していたとされるが、政府公認の売春宿がこの森紅園だった。

あつしやこの辺に住む子供たちにとっては娼妓と客の姿は当たり前の光景なのであった。

昔から日本という国は性についておおらかな風習がある。

人が集まる賑やかなところには必ずと言っていいほどに遊女屋があったものだ。

青森も例外ではなく、1889年に現在の青柳に塩町遊郭(しおまちゆうかく)ができ、船員や町の若者の遊興で繁昌し、その後堤川の東側現在の港町(みなとまち)に柳原遊郭(やなぎはらゆうかく)として移り、柳原は東北でも一、二といわれた大規模な遊郭と言われた。

木造三階建ての多くの妓楼(ぎろう)が並ぶ遊郭のその中でも富士見楼(ふじみろう)はなんとも四階建ての上に望楼風(ぼうろうふう)の貸座敷(かしざしき)部屋を持っていたり、店先には、当時普及したてのガス灯が灯(とも)され、夜になればさらに華やかさを増し、堤川の反対側から見える電灯が灯るその賑(にぎ)わいはさながら不夜城ようなものだった。

女郎衆(じょろうしゅう)は総勢200名。一・二等貸座敷は12~13軒。三等貸座敷は30軒くらいもあり大変栄えていた。

その柳原遊郭が明治43(1910)年の五月、大火になり焼け出され、新しく旭町が遊郭地として指定された。

元々、当時の柳原遊郭辺りは大坂金助という地主のものだったが、知事の武田千代三郎が市民の風紀上、堤に遊郭があることは良くないと移転先を旭町に計画されていたからである。

旭町辺りは移転先に決められる前には、町の有力地権者などによってその土地を思惑買いもされていたが、街外れであり、人家も立たず野原が続き、そのうえ市内から五、六町も離れていた為、移転すると経営が難しくなるという見通しをつけた見世(みせ)も多かった。その為、一等貸座敷の三升楼、富士見楼などは、早々と函館市の大門(だいもん)遊郭へ移転してしまった。それでも鉄道の踏切あたりに数軒の仮小屋が出来た。そして青森には大火後の、復興のために多くの人が集まっていた。そして、その人夫達の大勢が、その遊女屋に集ってくるのを見ると他の業者も、旭町に続きざまに見世が開業を開始した。移転してきた遊郭は当初、江戸の吉原の佳名をとって吉原町と名付けられ地割りもされた。

移転後の遊郭、吉原町、森紅園は大火より約10年で当時の記録によると長谷川楼、宮城楼、北越楼、福太楼などの貸し座敷は21、娼妓の数は104人と八戸には劣りはしたがとても規模も大きくなっていった。

森紅園の入り口は旭町から直角に真っすぐ続いていた。その道沿いには高くそびえる妓楼の建物が軒を連ね、妓楼の建物は大体が二段の出梁(だしばり)に支えられた出桁(だしげた)に、細やかな垂木(タルキ)が伸びてひさしを支え、出梁と垂木の小口一つ一つに銅板が巻かれ屋根も銅板で葺(フ)かれていた。細格子の上には明り取り、硝子細工のような工夫を凝らした妓楼も数多くあり、実に煌(きら)びやかな装いで、そこはまさしく男にとっては夢の里として輝いて見えた事だろう。

それらの建物をごく自然なものとして物心ついた頃からあつしは見て育ってきた。

森紅園の道路は大変広く、通常の市道の倍近くもあったろうか、まるでそこは広場のように子供たちの目には映り、森紅園の道路は子供達の格好の遊び場になっていた。
あつし達子供はそこで、野球もすれば缶蹴りもなんでもしたものだった。
現在はこの地は数軒の飲み屋や旅館、そして住宅が並んでいるが、街の当時の区割りはしっかりと遊郭時代のまま残っている。
3
浪打稲荷神社

1940年(S15) 、青森市の繁華街から10分ほど歩いた旭町にあった浪打稲荷神社の神主の子としてあつしは生まれた。住む家は浪打稲荷神社の右隣の並びにあったので、まさに神社が家と言っても良かった。

当時は神社というと大概の人はありがたく思ったものだ。神社は人々にとって特別なものだったからだ。

神社の前を通る時などはみんなが頭を下げるのが当たり前、
歩いていようがバスに乗っていようがそれは変わらず、
もし頭を下げないものがいたならば赤(共産主義者)として
その様子を見ていたものにより特高に告げられ、非国民のレッテルを貼られたりもした。

そんな神社の、あつしは次男として生まれたのである。兄弟は五人、兄と弟、そして妹が二人である。

その辺り界隈の子供達の間でも、神社の息子ということもあり一目置かれる存在だったあつしは、いまで言うガキ大将、町内の同年代の子供達はあつしの呼びかけには逆らうことなどなかった。

神社は遊郭街、森紅園(シンコウエン)のちょうど真ん前にあった。森紅園は元々が堤川沿いの柳原遊郭が移ってきたものだが、神社はその森紅園に請われて、合浦にあった神社が分祀される形だったので森紅園の真ん前に建立されたのである。(現在浪打稲荷は廣田神社に合祀されている)

その日の午後、あつしはいつものように、神主の父の横で一緒に稲荷神社の境内をくまなく掃除していた。

「この隅のあたりも忘れればまいねぞ」
「うん、わがった。」
「掃除はどうしても角、角ば忘れでしまうが、そこが一番埃がたまるんだがらな」

あつしの家には奉公しているものもいるのだが必ず神主の父は自ら清掃を行う。そして父の掃除の手伝いをするのがあつしの日課になっていた。

父との掃除は、あつしにやらせるというより文字通り一緒に掃除をするというものである。
掃除の間、父は無駄なことはあまり話すことなど無く黙々と作業を進めていく。そんな父の横であつしも父の作業の手伝いをするのである。

世の中では「神主」というだけで何となく偉い人というイメージを持っているがあつしの父に対する印象はもっと違ったものだった。

あつしの父はどちらかというと温厚で、人の気持ちを大切にする、そんなタイプであった。そして神主ということもあり、いつも森紅園の人と旭町界隈の商店の者たちの間を取りもち、誰からも慕われていた。

あつしはそんな父のそばに、いつもついて歩いたものである。

父の存在はあつしにはもちろん、兄妹にとっても特別だった。母はいつでもなんやかんやと怒っているので怖いというよりうるさいだけだが、父は普段は温厚であるが怒ったときの反動が大きい。子供たちも父の言い付けは必ず守る。そんな感じであった。

それでもあつしは、毎日の掃除が嫌でよく父に尋ねたものだ。

だが父は怒るでもなく、まだ国民学校にもあがっていないあつしに語りかけたものだ。

「神主の仕事は貴い神様に、参拝者のお取り次ぎをすることなんだぞ、お前に教えてもまだわからぬかもしれないが『中執り持ち(なかとりもち)』といってな、参拝者の願い事を叶えるのは神主ではなく神様。神主に出来る事は神様との仲を取り持ってあげることだけだ。神様に仕えているということを除けば、神主のやっている事は乞食のようなものなんだ。
掃除をすることで、己を磨くことにもつながっていく」

乞食?あつしのこころの中でその乞食という言葉だけが残った。時たま見かける薄汚れた乞食と身なりをいつも整えている神主の父とどこがいっしょなのか?

町内のみんなは、あつしの事も、もちろんあつしの父の事も平身低頭ありがたがっているのにも関わらず自分たちが乞食と一緒だなんてまったくもって合点がいかない。

神様に捧げられたお供え物を恵んでもらって生活している。
それを忘れ、さも自分の力で参拝者を幸福にしてあげたと勘違いしてしまえば本分を見失う。

今は、父の言葉の中に秘められらたその想いがどことなく、というより確かにわかる気がする。

さも自分の力で参拝者を幸福にしてあげたと勘違いしてしまえば本分は確かに見失うだろう。本来、人の授けられたその力は、その人の持っているものなのだろうか。時折そのような事さえ最近では思うのだ。

いつになく、病が発症してからその事が良くわかるようになった。

何かしらの見えない力が宿り人はその力によって導かれていく、遠い昔の父の言葉の中にいろんなものが詰められていたことに気付くと、あんなにも大きく遠くにいたように思っていた父のことが近くに感じられ、このところは傍に父がいるような錯覚さえ覚えるのだった。

かというものの。幼いあつしにとって掃除なんていうものに当時は魅力などあるわけ無く。あつしはただ嫌々掃除というか、それに似た作業を父と一緒にいたいがために黙々とこなしていた。

一連の決められた日程をこなすと、あつしにとっての自分だけの時間が訪れる。あつしにとってのこの時間は一日中で自分にとって一番有意義な時間だった。

鳥居から境内は、ちょうど中庭のようにもなっていて
あつしはそこから通る人を眺め、絵を描くのが好きだったのだ。

あつしの絵好きにはいろんな逸話が残っている。

まだ言葉も覚えぬ小さなうちに、父の持っていた墨に添えられていた筆を持ち出して、障子になぐり書きのようなものを描いたことがある。

その時は、たいそう奉公人達が驚き慌てふためいて居たものだが、描かれたその落書きのようなものを見て父がなぜかうなづき、この子には天性の絵の才能があると、あつしを抱き上げ、なんども頭を撫でたりして大いに可愛がったようだ。描かれた落書きのようなものを見ても誰もそんな感じのことは感じる訳でもなく、我が子可愛さの親の猫可愛がりにすぎない。さすがの神主も人の子であると奉公人達も陰口を囁き、言い合ったものである。

また、実際にこの後、あつしは歳を重ね小学校にあがっても、金紙や銀紙などもらったことなど一度もありはしない。なぜならば、あつしの描く絵というものは、決して教師が手本を示したようなものでは無く、あつしが勝手気ままに描きなぐるというか表現する感じのもので、例えば空は青い夜は暗いといって、みんなが同じような絵にするのに対して、見たまま感じるままに描いたものだから、特に絵心のない教師は酷評を下すのだった。それに当のあつし自身でさえ、下手の横好きぐらいに思い、描きたいから描く、それぐらいにしか思っていなかったのだ。あつしにとってうまい下手などというものは問題ではなかった。だから、うまい絵を描こうなどと思った事などないのである。

誰だって自分の描いたものを褒められるのは気分が悪いわけなどありはしない。

だが、あつしにとって絵は描いていて単純に楽しい時間であり、そこは誰も踏み入ることのできない自分だけの世界だという気持ちが、もうこの頃から芽生えていた。

それに、あつしは周りの子供達がみんな、大人にほめられるために描いているのを知ってもいた。

他の子供達が描きたいのは大人に褒められるうまい絵だ、それなのに自分が描いているのが下手すぎるから、すぐに嫌気がさして飽きてしまい、そうなると絵から遠ざかるので当然、絵もうまくなるわけもない。

逆にあつしの場合は周りに褒められる事など気になどしてはいない。自分で描きたい時に描きたいように描く、だから絵を描く時間そのものが楽しくって仕方ないので、絵を描く時間も多くなる。最初は大人には褒めてもらえぬあつしの絵だったが、あつし流のスタイルみたいなものが、おぼろげながらも次第にできてゆき、見るものが見れば、これはなどと、うなづき褒めてくれるようなこともあるものだから、あつしも益々絵にのめり込むようなところがあったのだ。

「あつしさん、今日も絵描きさんかい、精が出るね。何を今日はお描きになってる」

母がしばらくあつしの座る横で立ち膝を立て絵を覗き込んできた。

ちらっとあつしは母の方に目をやったが、すぐに描きかけの絵に視線を戻して言った。

「弘前の桜の絵だよ」

「弘前の桜が、でもあつしさん、戦争でこどし弘前の桜さいげるべがの」

「花見なんてしてられねってみんな言ってらじゃ」

「んだの、でも弘前の桜っこ、この絵の中さ咲いでらじゃな」

母は笑いを抑えながら言って、あつしの絵を覗き込んでいた。

鉛筆書きで描かれていた絵は、弘前城の天守閣とその周りに咲く満開の桜であった。鉛筆なので色はついてはいないのだが見事な桜があつしの絵の中で花開いているのだった。そして母はニコニコ笑みを浮かべその絵を眺めている。

この当時、あつしが気に入っていたのは鉛筆だ。

当時は、鉛筆はとても貴重なもので有ったのだが、檀家の旦那衆がこれはたいそう便利なものであるからなどと言って、五香粉神社に奉納したが、その使い道に困り何本もの鉛筆があまり、父が絵の大好きなあつしに数本の鉛筆をくれたのである。多くの種類のそのなかでも月星鉛筆があつしはお気に入りであり、絵を描くのはもっぱらその月星であった。

母もどこか、表面では無く人や物事を底の方から見るような機微もあり、どうやらあつしの才能に気づいていたようである。ただ、母はあつしのべったり甘えるのには多少、辟易(へきえき)しているようなところもあり、普段は一緒に寝てくれることも、風呂に連れて行ってくれることもなかったのだが、絵を描いているあつしは真剣で大人しかったからか、寄り添うように横で、良くあつしの絵を眺めていたものだ。そして、そのように母にあたたかく覗き込んで絵をみてもらうのが、あつしは好きだった。

4
一本松

田んぼが連なるその中に一本松が凛と立っていた。
その脇の流れが万太郎堰である。
萬太郎堰の本流は、青森市の大野の境から沖館、篠田をとおり陸奥湾に流れる。その川から、かつて寛政の頃、沖館地区に住み着いた大阪城の落人の浅利萬太郎が田に水を引く試みを行った。上流の者達はそれを不服とし、上流の安田村と浪館の農民同志が水争いで戦った。ちょうどぶつかりあったとされる場所がこの一本松のあたりである。

堰沿いを辿って南に向かう通りは浪館道(旧浪館道)といった。

その通りは当時大野の集落に続き多くの市民が利用していたが、この頃は住宅もまだまだ立っておらず、はるか遠くに八甲田の峰々が見えていた。気持ちよく続く水田の風景は実にのどかで、かつての諍いも今は誰もが知る由もない。

あつしと仲間4人は手製の網をこしらえて、魚を捕りにその松が立つ萬太郎堰のあたりに出掛けた。
戦時で食べ物が不足していたこともあるが、それよりも魚獲りは子供たちのいわゆるちょっとした冒険のようなものであった。この一本松のあたりはあつしの住む旭町の子供たちがもっぱら出掛けた思い出の場所でもある。

魚捕りはとても楽しいものだ。
タモ網ひとつあれば、魚捕りはできる。
堰の魚がいそうだと思う場所でタモ網を入れ、そして網を持ち上げるのだ。どんな魚や生き物が捕れるかは運次第。

何度か繰り返し、その日の魚がいそうな場所はすぐに見当もつくようになる。
岸辺を歩きながらまずは魚がいそうな川の流れが緩やかなところを見つける。場所を定めたら、タモ網を川の水底に固定して構え、その網に追い込むように動かして網を引き上げるのだ。
タモ網は魚が逃げて隠れた場所から追い出して網に追い込むようにして捕まえる。そのため、魚が隠れていそうな草の陰や石の下に隙間がある場所で使うのだ。

あつしも何度か魚獲りを繰り返し、だいたい勘も効くようになっていた。

タモ網は出来るだけ動かないようにする事が大事だ。

あげるその瞬間に全神経を集中させる。

言葉であらわすのは難しいが要は魚の気持ちになってみるのだ。
コツは、タモ網のところが魚にとって安全な場所と思わせることが全 て、そしてそれまで安全だと思っていた網を持ち上げる。そうすることによって水草などに隠れていた魚たちが驚いて飛び出し網の中に入るのだ。運が良ければ隠れていたドジョウなども入ることもあり、小魚やエビや水生昆虫を捕ることもできる。

川に入らず岸から捕る方法もない訳ではないが、捕れる率は低くなる。
もっぱらあつし達のやり方はタモ網だった。

「うるせじゃ、少し黙ってろ!」

おかず屋のカネが集中している横でいつものように
何やら問いかけてくるので肝がやけてあつしが言った。

「ごめんよ。あつしちゃん…」
「魚だって、捕られたぐだっきゃねェんだね」

独り言のように言うとあつしは又、タモ網を上げる呼吸を整えていた。

あつしは子供心にもこの頃、魚をとる時に思うところが多々あった。
それは以前母と話しをしていた時のこと、母が魚は人に食べられるのが一番だと言った言葉に、幼いながらも違和感を覚えたことがきっかけだ。難しいことはわからないがあつしがそんなことはないと思っていた。
生きる糧は否応なしに必要だし獲れなければ死んでしまう
人の営みも、動植物の営みも究極のところ何も変わらない。
どんな動植物でも、生きとし生けるものにとって、生きるとは、生命の維持それが全てなのかもしれない。そんな事を魚捕りにより幼いながら学んでいたのだと今になるとあつしは思う。

あつしはもちろん仲間にそんな事を話した事もない。

仲間が息を呑んで見守る中、あつしがためにためてタモ網を上げた。

次の瞬間、あつしも仲間も驚き歓声をあげた。
タモ網のなかには思い掛け無い数の川魚がピチピチとはね踊っていた。

ドジョウ、カワヨシノボリの他にカワムツなど小さい魚が多かったが
それでも、あつしも仲間も満足だ。

それから何度かタモ網を同じように仕掛け漁を繰り返し、その日はこれまでより多くの川魚が収穫できた。

「あつしちゃん、さすがだ。」
「今までで一番の大漁だ。」

信じられない魚の多さに子供達は興奮してお互いに腕を取り合って喜んでいた。
この日の魚獲りは大成功であった。

「よーし、みんなで山分けだぞ〜」
「え、あつしちゃん、みんな魚もらえるんだが」
「あだりめだべな、みんなで一緒に獲った魚だもの、みんな同じ分に分けるに決まってるべ」

みんなにそれぞれの分け前を決めるのもあつしの役目だ。
あくまで公平に全て行う
そんなやり方に誰も不満を持つ者などいない。
仲間四人はお互いの泥にまみれた顔を見渡し声を出して笑いあった。

満面の笑みを浮かべながら家路を急ぐあつし達が振り返ると、そこには田園の風景の夕陽が落ちていて、はるか向こうに八甲田の峰が穏やかに聳えていた。

家に着くなりあつしは捕まえてきた川魚を母に差し出した。

「ずいぶん、今日はたくさんの魚獲りをしてきたね、でも川遊びは危ないとあれほど言ったのにあつしさん、こないだの言い付け忘れてしまったんだが」

喜ばれるのかと思ったのに母は、あつしを責めるように睨みつけた。あつしは小さくなりながらも様子を伺っていると、父がそこにやってきた。父は母になにやら云ってあつしのところまで来た。

「男の子はそれくらいでないとまいね」

そう言うと、あつしの頭を撫で自分の部屋に戻って行った

母がその様子を横目で見ながらあつしの捕まえてきた魚を手際よく調理していた。

日本酒 はこの頃、貴重とされていたが森紅園の店からの献上のものが
蓄えとしてあったので先ずはどじょうの泥を吐かせ、深鍋に酒を入れしばらく置き次は菜種から採った油でドジョウをいためた。
少しこげ目がつく程度に火が通ったら、ささがきゴボウを入れ、火を加え、とうふを入れ、酒と調味料を加え、そして自家製の味噌をといて味を調え、最後にネギを入れた。様子を眺めながら安堵しているあつしに母は言った。

「いつまで見でらのさ、汚れでまってる服ば、とっかえて体ば洗ってこいへ。」
「わがった。」

体を洗い着替えてくると母はドジョウ汁をこしらえていた。

「あつしさん、ドジョウ汁出来たよ食べへ」
「わは、食いたぐねぇ、母さんに食わせてぇんだね」
「何、あつしさん自分で食わねで、おらさ食えってが」
「んだ」
「わいは、オラひとりでドジョウだなんてバチあだるべな」
「なんも、あだらねじゃ、せっかくとってきたんだはんで食べればいいべさ」
「今食べ物がない御時世にこんな精のでるのをあつしさんは優しいねぇ」

“ウナギ一匹、ドジョウ一匹”と昔から言われてる。
ウナギにも劣らない栄養価のドジョウは滋養があるときいていたし、戦時中で食べ物が不足していた、せっかく採れたドジョウを母に食べさせてやりたいと思ったのだ。

ドジョウ汁を食べる母の姿をあつしは見ていた。
5
大東亜戦争

あつしはいつものように境内に腰掛け絵を描いていると、一人の兵隊さんが松葉杖をついて鳥居をくぐってくるのが見えた。

難儀しながらも兵隊さんは本殿の前にくると、賽銭箱にお金を投げ入れ、お参りを済ませあたりを見回して途方にくれた様子でその場に立ち尽くしていた。

兵隊さんはすぐにあつしに気づくと近寄ってきて物腰も柔らかく、声をかけてきた。

「歩きづらそうだろ、でも、これでなかなか不便もないのさ」

あつしが兵隊さんのなくなった脚のあたりを見ていると兵隊さんが言った。

「仲間が飢餓と闘いながらお国の為に戦っているのに情けないありさまさ」

兵隊さんはなかば独り言のようにいった。

「この辺りに住んでいるのかい」
「うんだ、この神社に住んでる。」
「神社に住んでるって、おめ、」
「神主の息子だ」
「それだばここさ住んでるわけだな」

頷くあつしに、さらに兵隊さんは訪ねた。

「森紅園の前に住んでおいでだということは、森紅園に入ったこともあるのかい」
「入ったもなんも、毎日、森紅園の通りで遊んでるし、父さんの手伝いで店さも入った事だってあるじゃ」
「へ〜、店にも…じゃ長谷川楼にも入ったこともあるのかい」
「あだりめだべなぁ、あそごだっきゃ森紅園で一番が、二番の大きな見世だもの」
「そうかそうか」

あつしは、兵隊さんに長谷川楼にいるカエデという娼妓に手紙を頼まれ、見世の婆に預かって戻ってくると、ものの5分も経つことはなかった。

「兵隊さん見世の婆にあずがってきたがら大丈夫だ」

そう答え、母屋の方に行こうとするとあつしの背後に人の気配があった。
振り返ると、そこには森紅園の娼妓の姿があった。

「あっ!」

あつしはその娼妓に見覚えがあった。いつだったか、野球をしていた時に客を送り出していた娼妓に違いなかった。オンナは近くまでやってきて兵隊さんに頭をさげると言った。

「カエデです。お手紙受け取らせていただきました」

「そうか、そうか、あんたがカエデさんか。わは、山田って言うもんだ。中田英夫くんのバディだった」(注バディ:軍隊でいう相棒の通称)

娼妓はただ無防備にそこに立ち、しばらく経って言った。

「中田英夫はどんな様子でしたが、もっと話っこ聞かせてけねが」

兵隊さんは娼妓の顔をしばらく見て、重い口をあけた。

「本当になんて言って良いのか、申し訳ありません。ここにこうしている事がとっても仲間達に申し訳無い事だとしか言えないんですよ。わは、ちょうど戦局が悪化する前に、この通り、事故で足ば飛ばされてしまい、後方の部隊にまわされ、内地に返されてきた。別れる間際、中田君が手紙をわさ、託したんです。」

兵隊がカエデに近寄って、なにやら語り始めた。

二人はそれから、しばらく境内で話をしていた。

あつしはどうしたら良いのかわからないので、その様子をずっと立って傍らで見ていた。

カエデは青森の津軽半島の北東部、外ヶ浜に生まれた。外ケ浜はそれまで続いていた陸地が尽きる場所であり、平安時代には鬼(暗に中央に同化しない蝦夷(アイヌ)達を蔑視して指した)の住まう地としてひっそりとしてしていたが、カエデは外ケ浜でももっとも北の龍飛に近い農家の長女として生まれた。当時は農村部において11~12歳になると奉公に出るというのが当たり前だった。カエデも何ひとつ疑う事なく一家が生活をするために、いわゆる口減らしの意味から森紅園に奉公に出た。

悲しいという気持ちなどなかった。

むしろ、それまでの空腹を満たせる、そんな気持ちしかなかった。きれいな着物を着たり、稾ではなく布団に寝られるというのもありがたく、兄や弟、妹たちの食べる物を減らす心配もなく、両親のほっとしたような顔を見られたのが何よりうれしかった。奉公に出たその夜の両親の安堵した顔が森紅園にきてからも心の拠り所、親孝行ができてよかったと思っていた。

当時は家父長制もあり農家の長男は家の跡継ぎ、二男、三男でも当時は軍隊の下級兵になったものだが、社会的地位の低かった娘は一家の人柱となって、売られていくことなど普通のこと、自らの境遇に疑問すら抱いてはいなかった。カエデの兄も軍隊に行き、カエデも森紅園に売られた。

大東亜戦争が始まり数年経った時、ある客を招き入れたことがあった。それは外地に向かう若き兵隊さんだった。外地に向かう兵隊など、これまで何度となく受け入れてきたカエデであったが、その時ばかりは本当に驚き、兵隊さんもその場でカエデを見ると立ち尽くした。

何故なら兄妹には行儀見習いに行くといって上京したはずのカエデが、実は森紅園に売られていたのだ。そこに外地に行く前に女でも教えてやろうと上官に連れられ、たまたまやってきた遊郭で遊女を買ったところ、出てきたのが実の妹だったのである。

その場でその時二人は抱き合い泣きあった。

兄は妹の不運を思い、生きて帰って必ず妹をここから出してやる、そのようにカエデに話したのだった。

気丈に最初は思えた娼妓だったが、抑えられず涙がこぼれ落ちると始終、山田の話を聞きながら泣き続けていた。

娼妓カエデの待つ兄の中田英夫は昭和19年入隊後レイテ島に送られ、その消息をカエデはずっと気にかけていたのだが、山田の話によるとほぼ戻ってくる希望はなかった。

猛烈な米軍の艦砲射撃、砲撃、そして機銃掃射。味方の上陸を阻む敵爆撃機、補給が届かない中で散り散りになる部隊、圧倒的な敵の物量の前でも、必死に前線を維持しようとする日本軍の果敢な戦いも虚しく、送り込まれた8万4千名のうち、8万1500名の日本兵が戦死。

レイテ島の戦いは、戦死率97パーセントと言われどの地域よりも高い。

青森県からは、第5連隊2400名がレイテ島に渡り、その中に中田もいたのであった。生きて故郷に戻ったのはたったの9名と伝えられている。

レイテ島の戦い以降の大東亜戦争は、さらに過酷な状況になっていく。

あつしはそんな中で今でも覚えているのは町内で合同で行われる葬式だ。

町内で戦死したものがあると町葬が行われるのだ。

誰もがその葬式に参列させられた。
幼いあつしにとって葬式は大の苦手だった。長々と読み上げられるお経のその退屈なことに加え、その間じゅう正座させられた苦痛は耐え難いものだった。足のしびれが極度に達するとそれはさながら拷問に近いものを感じた。

式の中で斉唱されたのは決まって「海ゆかば」だった。

海ゆかば、水漬く屍山ゆかば、草むす屍大君の邊にこそ死なめかえりみはせじ

内容は分からずとも、未だにその歌が心の中にあるような気がする。

日中戦争から続いた、米英との大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)の戦況はさらに昭和20年に入ると、絶望的な状況となり、遂に2月19日硫黄島の戦いが開始され、日本軍は激しく抵抗、戦いは1ヶ月以上続いた。

補給もないままで戦った日本軍は、持久戦の果てに米軍上陸約一ヵ月後の3月17日、栗林中将から大本営に訣別の電文を打電し、総攻撃を行うが悲壮な最期を遂げ、硫黄島は玉砕の島となった。地下壕に充満した飢えと乾き、玉砕。

B29爆撃機の空襲圏内となった日本本土は3月10日に東京大空襲を受ける。

本土決戦が叫ばれるなか米軍の次なる目標は沖縄。

日本本土への上陸作戦の基地として、沖縄の確保は戦略上欠かせなかった。月末、米軍の大船団が沖縄に集結、米軍は首里を目指して進撃した。

そして4月7日には伊勢神宮に爆弾が投下、4月13日は宮城と大宮御所の一部と明治神宮焼け失せ、このニュースは全国に一斉に伝わった。

6
疎開

日本中が戦争一色、本土決戦、あらゆる鉄器が消え失せるなか、青森市民の生活ももちろん、戦争とは無関係であるはずもなかった。
終戦約1ヶ月前の昭和20年(1945)7月14日。青森市は青森港周辺の市の中心部そして青函連絡船に対して米軍機の猛烈な爆撃を受けた。

この時の爆撃により青函連絡船は、保有の全12隻を被害で失った。

いよいよ戦局も深刻になり不安のうちに生活をしていた市民に一週間も待たない7/20頃から、青森市上空に飛来した米軍機が「伝単(米軍の空襲予告ビラ)」を撒き散らした。

そこには青森を数日中に爆撃するという内容が書かれていた。

7月27日米軍が撒いたビラは裏の面が米軍機が爆弾を落としている様子が描かれており、空爆する予定の都市の名前が書かれていた。都市の名前は全部で11箇所、宇治山田、津、郡山、函館、長岡、宇和島、久留米、一ノ宮、大垣、西宮、そして青森である。文面は次のようなものであった。

ー日本国民に告ぐ

あなたたちは、自分や親兄妹友達の命を助けようとは思いませんか。助けたければこのビラをよく読んで下さい。
数日の内に裏面の都市の内4つか5の都市にある軍事施設を米軍は爆撃します。
この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。軍部がこの勝ち目のない戦争を長引かせる為に使う兵器を、 米空軍は全部破壊しますけれども爆弾には目がありませんからどこに落ちるかわかりません。ご承知のように人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくはありません。ですから、裏に書いてある都市から避難して下さい。
アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です。アメリカの考えている平和というのはただ軍部の圧迫からあなた方を解放することです。そうすればもっと良い新日本が出来上がるんです。
戦争を止めるような新指導者を樹てて平和を回復したらどうですか。この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかもしれませんが、少なくともこの裏に書いてある都市の内必ず4つは爆撃します。予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難してください。(空襲予告ビラ本文写し)
ビラは吹く風のせいか、青森市街地にはあまり散らばることがなく、海岸寄りの地区に散らばり、その多くが海面に束のまま漂った。

それでも市街地において拾う者もいないわけではなく、軍と県の上層部からの達しによりこのビラは速やかに回収された。ビラ拾いに緊急動員された者たちに陸軍憲兵は「所持するな、書かれたことを他人に伝える者あらば軍法会議にかけ厳重に処罰する」と一喝した。

しかし隠しきれる訳もなく、間もなく青森を大きな爆撃が襲うという噂は多くの人々まで自然に伝わっていた。

そして、市民の多くは郊外の山中や田園地帯に疎開を始めた。

知事はこの対応とし
「家をからにして逃げたり、山中に小屋を建てて出てこないというものがあるが防空法によつて処罰出来るのであるから断乎たる処置をとる」と新聞を通じて警告を発した 。
青森市も、この命に従う形で
一家全員で避難して家が無人になっている場合は、7月28日までに帰らなければ、 食べ物などの配給を停止すると新聞を通じて発表した。

物資も食べ物も一般に流通されていなく、配給を止められると市民は飢え死にする他は無かった。爆撃、餓死、どちらも望まぬ結果であったが、多くの市民は帰宅せざるを得ないと悟った。

あつしも母に連れられこのビラが撒かれる数日前に母の実家のある孫内に疎開をした。
小さな子供達はそれぞれリヤカーの荷物の上に乗り、山に差し掛かると皆でリヤカーを押して進んだ。父は家族を疎開先まで届けると長男とあつしを呼びこう言った。

「おまえ達が母さんを助け、幼い兄妹の面倒をみてやらねばまいね。いいが頼んだぞ。わは神社ば守らねばまいね。わがるな。」

父はそう言うとすぐさま青森に引き返して行った。

孫内は鶴ヶ坂からさらに山の中にある山里だ。
杉の木が生い茂る森の中にある細い道を辿っていくと、そこにはひっそりとした集落がある。さらにその集落を抜け山道に向かうと母の生まれた家がある。母の実家は孫内でも大きな家である。

あつしと同じように、青森から疎開してきている女や子供たちも、あつしの母の実家に身を寄せていた。

孫内に住む歳も同じくらいの女の子と仲良くなった。

当時、男の子と女の子が遊ぶなどということは無かった。

もし、お互いに口をきこうものなら、仲間連中から非難されもした。
自分の妹達や母などとはもちろん会話はするが、同世代の女の子などとは気軽に話をした事はなかった。

孫内にある淡嶋神社。子宝の神様として知られ、地元以外にも広く信仰される神社で境内には奉納物もなくひっそりしていた。

その日、あつしは馬の像の前で一人で絵を描いていた。
肌がとても黒く、歯の白さが目立つ、そんな印象の女の子が目の前に立っていた。熱心にあつしの絵を見ている女の子がどこか母とかぶった。自然にあつしは女の子に尋ねていた。

「青森がらきたんだが」

女の子は、驚いた表情だったが、あつしに頷いてみせた。

初めて交わす同世代の女の子であつしは少し照れくさい気持ちもあった。
あつしは描いていた鉛筆を止めず女の子を見ずに言った。

「わも、青森がらきた。旭町だ」

女の子は黙ったままだった。

「絵っこ、すぎだんだが」

女の子は頷く

あつしはその子に絵描き帳を見せてやると、女の子はあつしの描いている絵を興味深く見ていた。

「わは、あつしっていうばって、なは何て言うんだば」

女の子はあつしをちらっと見たがやはり何も言わなかった。

「おめもかぐが」

女の子が頷いたのであつしは一枚紙をくれてやると2人は並んで絵を描いた。

言葉も交わさず黙々と二人は絵を描いていたが、あつしは気になって女の子の絵を覗いた。

女の子の描いた絵に描かれいたのは髪の長い女の人で、その周りにはたくさんの蝶々とお日様が描かれていた。

「この子はオメだが」

女の子はただ首を振っているだけだった。
不思議な絵だった。ただ明るい感じでなく、どこか幻想的な雰囲気があった。

あつしは心の感じるまま、ただ絵が上手いねといった。

女の子はかすかに笑ったようだが、絵を描き続けていた。

すると、大っきくて黒色に輝くトンボが飛んできた。

「オニヤンマだ!」

あつしはトンボを見て思わず言った。

トンボが同じところをグルグル飛んでいる。

二人はしばらくトンボを眺めていた。

キラキラ輝く陽の光の中、導くようにそのトンボが飛んでいる様に思え、
二人はお互いの顔を見合わせると言葉も交わさずそのトンボを追った。

山道らしき小さな道沿いをずっといくと林があった。

林の中は穏やかな光が差し込んでいる。
空気がそこだけひんやりしている。林をずっと進んでいくと割と開けた野原のようなところに出た。
トンボの姿を探し二人はしばらくあたりを探しまわったがどこにもトンボはいなかった。

開かれた野原の向こうに、小さな小屋が建っているのが見えた。

導かれるようにその小屋までいき、恐る恐る中を覗くと誰もいなかったが藁で作られた寝床が小屋の中片隅にあってまるで誰かが最近まで住んでいたようにも思えた。

そこにいると、言葉にならない妙に落ち着いた気持ちになった。

時が止まってるそんな錯覚、しばらくたたずんでいたが、思い立って振り返るとそこに一緒にいるはずの女の子が何故かいないのに気づいた。今まで一緒にいた女の子の姿が見えなかった。辺りを見渡すがそれまで一緒だと思っていた女の子が姿を消していた。

最初はあつしは夢でも見ているのかなと思った。
軽いめまいがあつしを襲った。

空白の意識から自分を取り戻すと、どうしたものか、林の中にひとりでいた。小屋も消えて無くなっていた。

狐にでも会うか、まるで夢でも見ているのかなと思い戸惑いしばらく立ち尽くしていたが、あつしは思い直しやってきたはずの方向に向かい歩き出した。

早く帰らなければ
きっとみんなが心配していると思ったのだ。

歩き出し、同じところを通ったはずなのに、気づくと、ひっそりとたたずむ沼に出くわしていた。

かすかに林の木々から差し込む陽の光が水面に揺らいでいる。静寂があたり一面を支配している。そんな沼だった。

そこは通ってきたところとは明らかに違う場所だった。

道に迷ってしまったのだ。辺りを眺めていると沼の向こうで誰かが立っている様に見えた。

あつしは、自分の目を疑って目をこすった。
もう一度見るとそこには白い服を着た髪の長い女の人がこっちを見ていた。

あっ、お姉さんの姿に見覚えがあった。

淡嶋神社の境内で女の子が描いていた絵に描かれていた女の人だ。直感的にあつしは思った。

すると女の人は何も言わず静かに指差しした。
そっちの方を振り返りあつしがもう一度女の人の方を向くと、女の人はもうそこにはいなかった。

あつしは女の人が指差した方に何があるのか興味もあったが、それよりも得体の知れない恐ろしさの方がまさり、もと来たところを戻るつもりで全力で走った。しかし、いくら走っても林の中から出ることが出来なくなってしまった。気づくと同じところをただ回っているようでもあった。

どれだけ走ったのだろうか。
途方に暮れてあつしは、その場に膝を落としてしまった。

そして、何気なくそこにあった杉の木を見上げた。

太い杉の木、幹のあたり、あつしの身長よりちょっと高いところに藁で作った人形が五寸釘で打たれていた。

あつしは言い知れない寒気を覚えながらも、早くここからでなければと思ったが、思いに反してあつしの足はガクガクになってそこで動けなくなってしまった。

あつしにできるのは泣くことだけだった。

あつしは声を出して泣いた。とっても大きな声で泣いた。

あつしの声はきっと誰にも届くことはないだろう、そんな絶望感があつしを襲った。

あつしがそんな風に思いながら、次第に泣き止み振り返るとそこには先程追いかけていた銀色のトンボがその人形のあたりを飛んでいるのが見えた。

あつしが疎開先の母の家に戻ってこれたのは、集落の住民が山菜採りの帰りに通りかかったからであった。

この日の記憶はずっとあつしの中に残っている。

林の中で見た人形が、その時は、なんなのか良くわかりはしなかった。だが、今となって思い返すと、人の持つ情念の深さや業がそこにはあったのだと思う。

あの時、一緒に絵を描いた女の子のことも藁人形のことも、あつしは誰にも話したことは今まで無い。

孫内でのあつし疎開は決して楽しいものでもなかった。

毎日が淡々として過ぎているかの如くではあったが、戦争の影響は人里離れたこの孫内にも確実に届いており、誰もが不安な時を過ごしているのには変わりがないのだった。

一緒に疎開していた妹や弟もそういった周囲の雰囲気を察していたのだろうか、やんちゃ盛りの兄妹も大変おとなしかったと今になるとおもう。

6
青森大空襲

いつもの夏より雨の多い寒い夏であった。

作物はもちろんいつもの年に比べ実りも少なく食べるものも育つ事が少ない年、青森は大不作の年。青森にとって忘れる事のできない昭和20年はそんな夏であった。

しかし、昭和20年7月28日のその日は、朝から夏型の暑さで天候も回復し、それまでの冷夏を忘れさせる暑い日であった。

米軍機による爆撃を恐れ疎開する大勢の市民の動きを察知した当時の青森県知事は、避難民に対して「7月28日までに青森市に帰らないと、町会台帳より削除し、配給物資を停止する」と通告を行った。

ただでさえ乏しい物資の中で、食糧配給を停止され、さらに町会台帳から抹殺され社会から消えさられることを恐れた市民は、逃げる事も許されず青森市内に多くの市民が、予告期限の7月28日までに大勢が戻ってきていた。

まるで避難民の帰りを待ち構えていたかのように、予告期限の28日の夜、青森市上空に約100機の米軍B-29爆撃機が飛来し、574トンもの焼夷弾を投下した。
これにより大火災が青森の街に発生、市の中心部の大半を焼き尽くした。

伝えられる記録によると死傷者1767名。焼失家屋18045戸(市街地の88%)。罹災者70166名。(諸説有り)と記録にある。

青森市内のこの日は朝からの好天は夕方過ぎには崩れ、しょぼしょぼと小雨が降っていた。そんな中、夜の9時15分、青森県地区警戒警報が発令されその警報も、1時間も経たぬ10時過ぎに空襲警報に変わった。

3月以来、幾度ともなく青森県の侵入経路、防空防衛の偵察を続けてきた米軍機B-29爆撃機の編隊が、秋田の男鹿半島を北上、西津軽郡岩崎村(深浦町)大間越付近より県内に入ってくると、米軍機の爆音が灯火管制の厳しい静まりかえった青森市の上空に轟いた。

午後10時30分頃からほとんど同時のタイミングで市街地の西部地区と東部地区に焼夷弾が落とされた。

B-29の銀の翼が赤く燃え上がる炎に照らされながら、編隊は3機と5機に分かれ、約2分おきくらいの間隔で周辺から中心部に向かい先ずは照明弾を投下ののち、焼夷弾投下の爆撃を行った。

焼夷弾は焼夷剤(発火の薬剤)を装填した爆弾だ。
通常の爆弾というものは爆風や飛び散る破片で対象となる物を破壊するが、この焼夷弾というものは中に入っている薬剤が燃える事により対象となるものに火災をおこさせる。

青森大空襲に使われたとされるE48焼夷弾はM74・6角焼夷弾38本を束ねた収束型の焼夷弾でありこの空襲で効果を見るために米軍機はこの強力な焼夷弾のみを使用したのだ。

爆撃は実に周密、市民の退路を断っていき逐次内部の地区にまで追い込みそして焼き払ったのである。

猛火が青森市を包み込みその炎は天高くまで届き、熱風が人々を襲った。約2時間もの長い間これでもかという程に爆撃は続き、青森は焼き尽くされた。

編隊は焼夷弾投下を行なった後、東南下、岩手県を経て太平洋に退去した。青森市に対して爆撃を行なった米軍機は61機(米軍資料によると70機)であった。

戦略的に何ら価値のない青森市を消し去る事だけが目的のいわゆる無差別都市空爆、青森大空襲はそんな作戦だった。

「おい、火の手があがったぞ、消火にあたれ」

防火豪から出て、爆撃を受け、火に燃える建物の消火に向かう人もいたがバケツの手送り、それまでの消化訓練などまるで役に立つわけなどなかった。防火に臨んだ者たちはことごとく火に包まれ避難の時期を失ってしまった。

凄まじい火の風が街の中を駆け巡っていた。
防火豪にいるまま焼け死ぬものも多かった。

人々の混乱は想像を超えた。
そこは、燃え盛る地獄、その中で人々は逃げ惑った。

浪館通りの久須志神社のあたりに大勢の避難者が押し寄せていた。

旭町のはずれのミルクプラントのあたりで車が燃え、それを避けながら被災者は旭町に逃げ込んで来た。

東北線の踏み切りのその向こうは火の海であった。

逃げ込んで来た者の中には火傷で腕が一升瓶くらい太さになって顔が腫れ上がり苦しむ人や、数珠を持って慌てふためく老婆、黒く焼け焦げた衣服とすすで目だけ白く見える苦悶の人々が水を欲しがっていた。

婦人会のものたちが第2救護診療所にあてられた森紅園に担架で次々に火から逃れて来た人々を運び込んでくる。

はじめは森紅園そばの消防小屋に収容された被災者も、すぐにいっぱいになり、森紅園もその二階も解放、遊郭は多くの被災者で溢れかえっていた。

町会の指示により大野村に避難していた遊郭の女達は夜明け前から森紅園に駆けつけていた。

大東亜戦争も激化した昭和18年、森紅園に当時勤めていた約130名ほどの女達は戦時女子救護団として訓練されており、配給、炊き出し、救護の役割りを非常時の為にほどこされていたのだった。

負傷者の多くは火傷であった。何か油を塗って風邪にあてぬようにし、毛布などの布でくるんでやる。

遊郭の女達も皆繰り出し応急の措置をしていた。

森紅園に駆けつけた医師や看護婦は、持ち込んだ非常用の貯蔵の軟骨を運び込まれてくる被災者にすり込んでやり、包帯を巻き三角布で包む応急治療を汗だくで行う。

火傷以外のものも大勢いた、ガラスの破片を浴びたもの、歩くのもままならぬ老人、遊郭の女達はみんながみんなかいがいしく恐る事もなく人々の為に懸命の介護にあたった。

無報酬なのはもちろん遊郭の女達は混乱の中、押し寄せて来る人々の救護活動を懸命に行った。
悪夢の空襲が開けた日、その日は日曜日であったが、青森市は焼け野原、
被災地全域の水道は、水栓が取れ鉛管が溶け、水は出っ放し、当時、青森市の水を貯めていた横内浄水場の配水池の水位は低下の一方であった。道路上には電線が入り乱れ焼炭が積もっていた。

焼け野原の中にある防空壕から消防夫が死体を掘り出している。

我が家を探して歩く市民の姿があちこちに見えた。

爆弾が落ちた大穴がたくさんあった。

焼け野原の向こうに焼け残った蓮華寺、公会堂、県会議事堂、長島と古川の国民学校がまだ煙の立ち上っている地獄と化した市街地の中でまだかろうじて立っているのが見えた。

国道のその向こうにある操車場には、幸いにも残ったレールの上を汽車がかろうじて走り、海の向こうには浜の冷蔵庫の間から船のいくのが見えた。

市民はただ呆然と一夜にして消え失せた街の様子にただ呆然と立ち尽くすのみであった。

多くの身元も判らぬ死体がトラックで三内の墓地に運ばれた。

身内の行方をあんじた市民が三内に駆けつけた。

身元すら確認出来ず市民が途方に暮れていたが
身元のわからない死体でも、身内の者がその脇に立つと死体にもかかわらず口、鼻、耳の穴から血のような液体が流れ出てくるそんな噂もたった。
この夜のことをあつしは強烈に覚えている。
疎開先の孫内村では、大勢の大人たちの騒がしい声や足音が聞こえ、眠りについたあつしが、目覚めたのはごうごうと上空を渡っていく轟音があったからであった。

「火をつけるんでねぇぞ」

誰彼となく口々に灯りをつけるなという声がしていた。灯火管制により灯りをともすことが許されない中、人々は外に暗闇のなか外に出てくると轟音のする方を見上げていた。あつしは、やはり目を覚ましてきた下の弟と妹を連れてその中にいた。
間も無くして、昼とも間違うような照明弾が青森市の上空あたりで、燦々と輝いていた。まるで花火が降っているように空が明るくなった。なぜか夜空に飛び散って落ちていく焼夷弾が美しくさえ思えた。

「わー、なんだ昼みたいにあがるいじゃ」

口々に皆がそのように言い合っていると、直ぐに空が真っ赤な色合いに変わっていった。それは黄昏のような明るさで、誰もが青森市の上空の方を見ていた。大人たちはお互い、拳を握りしめながら、涙をどうすることもできず膝から崩れる者もいた。気がつくと母が後ろに立っていた。

母も空を見つめながらも、あつしたちを招き、そして抱き寄せた。母も震えて泣いていた。あつしは気丈にも父の言い付け通り母を守ろうとしたが自然と涙が溢れ、どうする事もできなかった。

朝を迎え、子供心にも不安で父や神社がどうなったか、心配で仕方なかった。

青森がどれくらいの被害を受けたのかと街から逃れて来た人に聞くと、「半分」という人もあれば「もう何も残っていない」と答える人もいた。孫内村の人々はただ身内の安否を案じるだけでなす術もなかった。

旭町の父からの無事の連絡が届いたのは2日程経っての事で、市の大半を焼け野原と変え壊滅的に被害を与え、もう米軍機の爆撃はないだろうということで、あつし達は浪打稲荷神社にすぐに戻った。

無傷の状態で神社は残っており、あつしも兄弟もホッと胸を撫で下ろしはしたものの町のことを聞く事はためらわれた。

幼いながら街がとんでもない事になっている事は、大人たちの会話でうすうす気づいていたし、街を燃やした焼け焦げた煤の匂いが立ち込めていた。

空襲が終わった青森市の人口は戦前に比べ約半数の5万6千人
住むところを失い、乏しい食糧の為にツテを求め近隣の村などに疎開した者も多かった。

食糧と住宅の不足はもちろん、病院の軒先に雨露をしのぐために場所を借りるものや、青森駅の周辺には野宿するものたちが大勢いた。

配給はありはしたが、皆にいきわたる分などなく、焼け残った線路の脇の草を食べてなんとか持ちこたえるものも多かった。

川沿いでヨメナ、ヨモギ、セリなど食べられると思えるものならばなんでも摘んだ。アザミはその中でもご馳走であった。かたつむり、蜂の子、ざりがに、タニシ、イナゴ、どんなものでも食べていかねばならない。

生きていかねばならない。なんとしても生き抜いていかねばならない。
そんな想いが人々の心の中にあった。

廃墟に次第に戻ってきた市民は、瓦礫をまずは片付け、土蔵の焼け残った者はそこに、それ以外のものは仮小屋を建てそこで暮らしをはじめた。

空襲後の混乱は経済にも及んだ。

金はあっても物が全て焼失し、おまけに農産物もこの年は不作だったために物価はべらぼうに上がり続け、闇で相当の高さで物資、米が取り引きされた。

お互い物を引き換えする者はまだ幸せであった。

配給しか受けることのできない者は、まさに日干しの状態。

キミ(とうもろこし)、豆粕、海藻麺、でんぷんを水で溶いで茹でそれで飢えを凌いだ。だが、なぜかイカだけがたくさん取れた。イカを焼いて売る者がそのせいかたくさん目に付いた。

そうしたなか、8月6日、そして9日米軍は世界初の原子爆弾を広島、長崎にそれぞれ投下、ソ連が8日突如宣戦布告、満州に侵入が行われたと焼け野原の青森にも情報が入って、市民は今後の日本がどのようになっていくのか不安に思う8月9日と10日に青森にまた爆撃があった。

野内のタンクが爆撃されたのが10日なのにもかかわらず、黒い煙は3日も経ってもまだ高く立ち上っていた。

そして8月の15日、前日のラジオにおいて重大な発表があるという事で浪打稲荷の境内に近隣の村人全てが駆けつけていた。

そしてラジオ放送により昭和天皇の玉音放送が正午より行われた。

「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴視者の皆様、ご起立願います」

「天皇陛下におかせられ ましては、全国民に対し、かしこきも御自ら、大詔をのたまわせたもうことになりました。こ れより慎みて玉音をお送り申します」と先ずはNHKの解説員の放送があった後、「君が代」のメロディーが流れた。

その後昭和天皇が読み上げる、「終戦の詔」いわゆる「玉音放送」がラジオで放送された。

何を語られているのかはよくわからなかった。

「何ば言ってるんだべ」
「わがらねばって、静かにしへ」

あつしが尋ねると婆様が睨みつけた。

ほとんどの国民にとって、神である天皇の声を聴くのは、初めてであったし、もちろん昭和天皇の声を聞いたことも人々にとって、
難解な漢語、雑音混じりの音声、それに加え受信状態も悪く、この玉音 放送の内容などわかるはずもなかったが、直感的に日本の敗戦を公的に通知するラジオ放送であると理解した。

しのびがたきという一節で誰かが地にうずくまると誰彼なく地に崩れうなだれ、しくしくと泣いたが、どこかもうこれで戦争も終わりなのかという安堵がないわけでもなかった。

直前まで、勇ましい進軍ラッパと無敵の日本帝国陸海軍の輝かしき戦績がラジオを通して、国民に虚報が伝わっていたが、人々にとって、敗戦の近いことは配給が滞り、空襲を眺めていたときに、敗戦が遠からぬ日に到来すると誰もが予感していたのかも知れない。

この日のそらは雲ひとつもなく晴れ渡り静まりかえっていた。

日本は戦争に負けてしまったのであった。
7
敗戦

人々の敗戦のショックはもちろん大きなものだった。それにも増して市街地の約7割を失った青森の窮乏は想像を超えた。

引き続く連合軍の進駐も多くの不安な噂を呼んだ。

「アメリカ兵が上陸してくれば、男はみんな金玉を抜かれ、女は全て強姦される。断じて降伏するな」

このような内容のビラが焼け野原に残った柱に貼られてもいた。

不安が市民の間広がり、女は口紅などもってのほか、笑顔もだめ外も歩くなという者も多かった。

玉音放送から3日目の8月18日、内務省警保局長から、各庁、府県の長官らにあてて秘密の無電が発信される。

その内容は、警察署長が区域を設定、日本人の利用は禁止した性営業に積極的指導と整備急速充実を求めるというものであった。

米軍は公娼制度を認めず慰安所を置いていない。
占領軍による日本の一般女性に対するレイプ事件は予測されたため、日本政府は「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」を募集し、連合軍向けの慰安所を特殊慰安施設協会(RAA)を設立したのである。

これは実際にはそれまで息を潜めて細々と営業していた遊郭に、条件付で営業許可を与えたようなものだった。赤線青線という呼称がある、これはこの時、地図上に線を引いて営業許可区域を決めたからなのだ。赤い線で囲まれた地域が営業許可区域、青い線で仕切られた地域では遊郭の営業が認められなかった。赤線は公認売春宿、青線はモグリということなのである。

青森市においても9月12日の新聞に特殊慰安施設協会の急募の求人広告が載った。だが、なかなか人も思うように集まらず、生活難の直撃を受けた貧困層の女性がこれに吸い寄せられて集まり説明を受けたが、辞退者が大半であった。

当局は困り、そして青森市に進駐してきたアメリカ兵の相手をさせようと白羽の矢を立てたのが森紅園の女達であった。

当初森紅園においても、いかに遊郭の女とはいえ、昨日まで敵として憎んでいた異人に身を任せ慰安しろと強引に命令したとして、すんなり首を縦に振るものはなかった。

「鬼に殺されてしまう」
「死んでも嫌だ」
「親の仇と誰がそんなことをするもんか」

そんな声が多い中、青森警察の保安課の警官が森紅園の親方衆を集めて進駐軍に対する慰安接待の協力要請を行った。

親方衆も皆、難色を示したが、とりあえず娼妓を集めて話だけでもしてみるかという段取りになった。

森紅園の長谷川楼に集まった娼妓達に親方衆のなかの一人が警察の話を伝えると案の定、娼妓は真剣にその話を聞き入りその後、誰もが下を向きうなだれると、すすり泣くものさえあった。

当時娼妓の間において米兵の生殖器はとても大きく膝までぶら下がり、日本の女が交われば、身体が二つに裂けてしまうなどという噂も流れ皆恐れおののいていたのだ。

「お国の為、おなごに、つとめさせろっていうばって、ご用が済んだら、どうなってまるもんだが、しっかり補償でもしてけるんだが!」

遣り手婆の一人が立ち上がって鬼のような形相で言い放った。

この言葉に親方も黙り込み、その場にいたものもまたもや皆一同に黙りこくってしまった。長い沈黙が続いた。

「ご奉公いたします」

やがて後ろの方にいたカエデが叫ぶように言ったので、みんなが振り返りみるとカエデの瞳には涙が流れていた。

「おらもご奉公します」

キュッと身をあらためて娼妓の一人が答えたので、他の女達も無言のうちに首を縦に振った。
その後、森紅園では進駐軍がやってくる前に、闇で営業を行っている女達にも警察が声をかけるなど、あらゆる手をつかい女の数を増やし、洲崎遊郭などから外人相手の経験豊富な女が招かれ森紅園の女達に指導を行なった。

いわゆる一般の女性に対して乱暴をさせない意図があったのは娼妓の誰もが了解はしていたが、森紅園の女とて日本の女性には変わりはない。おのれの身の哀れさが呪わしく感じられ、泣き寝入りするのはいつの世も貧しき者かもしれないと、この時女達は皆情けなさを感じていた。
こういったことが行われていながらも、沖館方面も再度空襲されて被害も拡がったが9月には占領軍がついに青森に進駐してきた。

アメリカ海兵隊は合浦公園の砂浜から上陸
寄宿舎を公園内に設営し、青森市公会堂に米軍の師団長ミューラー少将が知事と会見を行った。

青森市民が米軍兵が進駐して知った事は、物質的にも文明的にも日本が劣っていたのだという事である。上陸した数時間後には自己発電し
焼け野原の整備もトラクターで行うなどの様子を見て国力の違いを痛感した。

進駐軍は混乱の中、当初は略奪、レイプなどを行ったが、MP (ミリタリーポリス)などの力により米軍兵の統制もとれ、秩序のようなものが生まれていった。

日が経っていくと青森もある程度落ち着いてくると、進駐軍の兵士達は森紅園にジープで乗り付けるようにもなっていた。

ジープが軽やかなハンドルさばきでやってくると「ハロー ハローエブリボディー、ハワユー」と米兵たちはその辺にいる者に向かい言いながらさっそうと飛び降りた。米兵がくると集まってくるのは子供たちである。
なぜかしら、そのGIの姿が子供達には颯爽と見えた。

「パパ、ママ、ピカリ、ハングリー、ハングリー」どこで覚えたのか聞きかじりの英語であつしも子供たちと一緒に「ギブミー・チョコレート」と言ってアメリカの兵隊に群がっていった。

あつしも、もらったチョコの味を今もまだ覚えている。甘いその味わいはあんこや、飴玉とは比べものにならない未知の味わいだった。覚醒剤が入っているという噂もあったので最初は棒状のチョコレートを恐る恐る食べたがその美味しさに驚き、病みつきになった。
GIはすんごい美味しいものを食べているから日本に勝ったんだ、そんなことを思いある時、あつしはクチャクチャと米兵が噛んでいるチューインガムなるものをもらったが飲み込めず喉に詰まらせてしまった。その時の苦しさはたまらないものだったので、それ以来あつしは貰うのはチョコレート一本に絞った。

CHQは敗戦の後、様々な活動を行った。

戦争末期から急増していた発疹チフス対策として殺虫剤DDTによるシラミ駆除もそのひとつだった。

子供の頭が真っ白になるだけのDDTをかけ、シラミが媒介する伝染病の予防の為、さらに空からも大量のDDTを散布も行った。職場、街頭、駅、港などで強制的にDDTが散布され た。DDTのシラミに対する殺虫効果は絶大で、シラミはその後急速に姿を消した。その頃小学校ではDDTの歌なるものも教えられた。

チンチンチフス発疹チフス
みんな嫌いだ、大嫌い
お閻魔様より、なお嫌い
そこで撒きましょう DDT DDT

ノンノン ノミも
みんないないよ もういない
おもてで元気に 遊べます
お礼をいいましょう DDT DDT

みんなこんな歌を歌ったものだった。

ところがこの後日本では1968年に発がん性、環境への残存性から全面禁止されている。
7
カストリ

青森駅舎は木造建築だったのにもかかわらず、青森大空襲を受けても奇跡的に焼夷弾が当たらず類焼を免れたせいもあり、その周りにすぐに闇市が立っていたので敗戦直後には物資を求める多くの市民が集まっていた。

当然とはいえ海外の植民地を失い、朝鮮中国の徴用工、捕虜に頼っていた石炭生産が打撃を受け、そしてなにより占領軍向けの支出が国家予算の三分の一を占めたことなどが、さらに日本経済を悪化させ人々の生活を圧迫していった。

敗戦後になり、米はもちろん、肉、魚、味噌、醤油などの調味料など生活に必要とされる物資は全てが配給となって、切符が無ければなんも買えないそんな状態になってしまったのだ、しかし、どんな時でも生きていかねばならない、そんな気持ちが人々の中にあった。人々が吸い付けられるように物資の調達に向かったのは青森駅周辺の闇市だった。

あつしも母と兄と連れ立って青森駅の闇市に出かけたが、そこは敗戦後とはいえどこか活気に溢れているように思えた。

昼食どきだった。

「タコにイカ一本一円、安くておいしいよ、サアーサアーどうぞ」の呼び声が響きわたっていた。

あつしはその声に導かれ、母と兄から離れ人混みでいっばいになった店を覗いていた。
そこには、ドラム缶を半分にしたものに炭を入れイカを焼いていた。
香ばしいイカの香りがそこいら中に漂っていた。

「うまそうだ…」

あつしは、しばらくイカを焼く様子を生唾を飲みながら見守っていたが、母と兄とはぐれたとはたと気がついた。

イカ焼き屋台の見物人から抜け出してあたりを見渡しても母と兄の姿はどこにも見えなかった。

「坊主どうした」

困り果ててあちこちをキョロキョロしていると背後から声が聞こえてきた。振り返るとそこには復員してきたと思われる兵隊さんがニコニコしながら立っていた。

「イカ焼きば、見てたら母さん達とはぐれでまった。」
「坊主、迷子になってしまったか」

あつしは頷きながらもあたりを見ていたが、人混みで母も兄の姿も見当たらなかった。

「闇市は物騒だから困ったな」

兵隊さんはあつしを見ながらそういったが、あつしは兵隊さんの手元をズッと見たままだった。兵隊さんはイカ焼きを持っていたのである。
それに気づくと兵隊さんは困ったように頭をかきながら言った。

「食え」

あつしは驚き兵隊さんが差し出したイカを見ているままだったが、促されるままそのイカを頬張った。
もちもちとして、香ばしいイカの味はまさに絶品と言って良かった。貪るように食べているとその様子を見て兵隊さんは和やかに笑っていた。

「美味いか」

あつしは兵隊さんの言葉に頷きながらもイカを頬張っていた。
すると、「あつしさんどこさ行ったかと思ったべな」という声が聴こえてきた。

はぐれたあつしを探していた母と兄であった。
二人は近づいてくるとあつしに行った。

「アレだけ、勝手にあちこち行ったらダメだって言って食べさ」

あつしは食べかけのイカを下ろして母の顔を見ていた。

「あつしさん、イカどうしたの」
「兵隊さんにもらった。」

そう言って、あつしは兵隊さんの方を見ると、人懐こい笑顔で兵隊さんはあつしの母に会釈していた。

「良かった。どうやら、迷子になったのかと思って、どうしようかと思ってました。」

兵隊さんがそういうと、あつしの母が言った。

「本当に、申し訳ありません。オラが目を離してしまったんです。」
「いえ、いえお母さんが見つかって良かった、良かった」

母は何度も兵隊さんにお辞儀をしていた。

兵隊さんと母はそこで少しばかり話をしていた。

兵隊さんの名前は鈴木幸夫さんと言った。四国の山の中で終戦を迎え、何日もかけ、生まれ故郷の樺太に帰るために青森まで来たが、この地で北海道に渡るために2日ほど足止めをされていたのだった。南樺太は1945年のこの年まで日本領だった。当時は約40万人もの日本人が住んでいた。しかし、1945年8月9日、ロシアが日ソ中立条約を一方的に破棄し南樺太に侵攻、8月28日には樺太全島を支配してしまった。生まれ故郷の樺太をソ連に占領され、北海道に渡っても、おそらく、樺太に帰ることも難しい、しかし、残してきた家族の安否も気になり、少しでも樺太に近づきたい。

事情を聞いてあつしの母もしばらく家にでも泊まってくれるように勧めたのだが、兵隊さんは、幸いにもこの日、北海道に渡る船のメドがついたからと、あつしの申し出を丁寧に辞して、闇市の人混みの中に消えて行った。

当時の青森駅周辺には北海道に渡るために鈴木のような復員兵が大勢滞在していた。

あつしと母と兄は、その兵隊さんの後ろ姿を消えるまで追っていた。

闇市の露天商といっても、以前からの露天商は案外少なく、大部分は失業者で、引揚者や旧植民地の朝鮮人も多かった。扱われている商品は、野菜などは近郊農家から直接持参する者が2割ほどいた。多くの農家のものもこの年は収穫物が少なかったが闇市に持ってくると高値で売れることがわかるとこぞって農作物を始めは持って来たものだった。(後々、買い出し部隊なるものができ市民が自ら農家に物資を求めて出向くようになっていった。)
収穫物が少ないということは農作物もあまり出回っていないということである。
ヤミ市は大体小売の価格の6倍、ひどいもので100倍もの値段に跳ね上がっていた。品物が揃い市が立つと、あとは物を売りたい人、買いたい人がさらに自然と集まるようになった。ご飯茶碗、下駄、フライ鍋、なんでも売られていた。裏では拳銃なども取引された。

闇市はさらに時間が経っていくと次第にヤクザの支配下、厳格な縄張り、ブローカーの階級制度もあってまさにそこに朝鮮人なども加わり激しい抗争対立が絶えなくなった。武器を取り上げられた警察にはなす術もなく、暴動の動きがあるときにはGHQが駆けつけた。
そのせいもあって一般の市民は怖い気持ちもあって本当は近寄りたくはなかったのだが、食べていくために闇市に向かったのである。

闇市では噂のように諍いがあっても、市民はなるべくそこには近寄らないようにしていた。

闇市に集う多くの人々は、生活不安を忘れるために飲酒にふけり、メチルアルコールなどの中毒も多発、まさしく自暴自棄、その日を生きる暮らしをしていたのも確かだが、したたかに生きる庶民の活力が渦巻き熱気が生まれたのも闇市であった。

無気力さ、アルコール依存症、薬物中毒、暴力・非暴力の犯罪の増加は、長く続いた軍や政府による古い権威や根拠のない独断、何年もかかって教え込まれたそういった軍国主義の崩壊に安堵し、それまで押さえつけられていたものが、貧しさの中でそこにある低俗なものに向かわせるという形で現れていったものだったのだ。

人々の根底にあったもの、それは戦争の最大の犠牲者は自分たちだということだった。

貧しさの中でも人々は抑圧からの解放を謳歌していた。

そんな絶望のなかからも、次第に健全な言論、ユーモア、批判が生まれ、明るい希望も生まれていった。

どん底まで落ちた時、人々が見上げるのは光なのかもしれない。その光がほんのわずかなものであったとしても人々を導いてくれるには充分なのだ。

生命力と本能と色情さえ駆使して「虚脱」を乗り越えていく。
さらに明るさと新しさを力説することが、あらゆる「暗い」ものや「諦めるしかないもの」に押し流されず、気持を持ち直すための万能薬となっていった。

だが、そもそも、明治以来、因習を乗り超えていくことは日本人の心に深く埋め込まれた日本人の脅迫観念だったと思う。

戦争が終わったとき、日本人は「新しい」日本を探し続ける準備がすっかりできていたのだ。

そして、その特質は戦後の混乱期を急速に立ち直らせる原動力となっていった。かつての敵、鬼畜である欧米列強は、軍国主義者や共産主義へと言葉を入れ替えるだけで、新しい敵になった。陰謀の張本人は実は日本の軍閥だったのだと、日本人は思い当たったのだ。

それにつけても、こどもたちの遊びといえば、闇市ごっこ、パンパン遊び、デモ遊び、引き揚げ列車遊び、ルンペンごっこ、泥棒ごっこ等でなどである。

おそろしく多様になった娯楽や、いろいろな人々のふるまいを受け容れるか、少なくとも我慢して見守るようになった。

現実逃避、パンパンと闇市などの現象はカストリ文化とよばれた。
45年10月までに、青森だけではなく全国の大都市を中心に一万七千の野外市場が生まれた。まさに日本の復興は闇市から始まっていったのである。

米や野菜、新鮮な魚などの食料をはじめ、飴やチョコレート、りんご、さらにはお酒、ゴム長靴や衣服など、戦争中にはめったにみられなかった品物が闇市に出現していった。このため値段は、公定価格の数十倍から数百倍であったが人でごった返し、品物は飛ぶように売れた。

雑多な品物を扱っていた闇市は、時を重ねて次第に魚菜市場へと変貌していった

また、闇市には外国の出身者も多くいたが、日本政府の法統制を受けない彼らの露店には禁制品が豊富に並び、日本人業者を圧倒し、一部は時として暴徒になり暴れ、ヤクザなどになっていった。 国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。そしてそのまま、パチ ンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。

8
間借り人
終戦の翌年の昭和21年、特殊慰安施設は、アメリカ大統領(当時)フランクリン・ルーズベルト夫人エレノア・ルーズベルトの反対、加えて性病の蔓延を理由としてGHQの女性解放政策により廃止された。

1946年1月21日に出された公娼制度廃止指令は、森紅園の遊郭の女性を縛ってきた前借・年期制度は人身売買として禁止とし、オンナたちはこの政策によって自由の身となったのである。

しかし、この政策を推進した日本は、逆に個人が自らの意思で売春稼業を継続を促しているかのごとくだった。

国際的婦女売買禁止は世界的にも潮流となっており、日本も公娼廃止を決意せざるを得ない流れは常識になっていた。
当局は貸座敷と娼妓の名称のみを変えて公許を撤廃し、指定地域内の営業を黙認するという欺瞞的方策として打ち出した。

つまり「売春そのもの」は禁じたわけではなかったのだ。

表面上では人身売買は禁止になったのだから、自由の身になったオンナたちも、廃業出来るはずであったが、多くの遊郭のオンナたちはそこに留まったのである。

今更、外の世界に出たところで行く当てなど遊郭勤めのオンナ達にあろうはずもなかった。
遊郭に残ったオンナ達にとって、これまでと違うのは、オンナたちが、少なくとも表面上は、自らの意思で遊郭の仕事を選んでいるという事だった。さらにこれまで遊郭で、原則的には寝泊まりしなければならないとされていたのが、外から通う事も出来るようになった。それまで拘束されて森紅園の中で暮らしていなければならないオンナたちだったが、森紅園の外で暮らすことも許されるようになったのである。

あつしの家は、家族が住むには多少ひろい造りだったせいもあるだろうが、何よりも森紅園の真ん前なので、オンナ達が自由の身となると、森紅園の見世の親方衆などからもたのまれたりして、あつしの家にオンナ達が間借りする運びとなった。

外から通うといっても遊郭のオンナを一般の社会はやはり侮蔑しているところもあり、間借り人達は神主であるならば公正であろうという考えもあり、あつしの家に間借りしたのだと思う。

新しく家に住む事になった間借り人は全部で3人、遣手婆のマリ、娼妓が二人、ゆり子とそしてあつしと度々面識もあったカエデだった。

間借り人の中でも、あつしを可愛がっていたのが娼妓のゆり子だった。

あつしのお気に入りの遊びに進駐軍ゴッコがあった。

あつしは何故か颯爽とした背の高い外人が大好きで、一日中進駐軍ゴッコをして過ごす日も 多々あったが、その様子をゆり子は時間があれば飽きもせず眺めている事も多かった。

ゆりこは30を超えてちょうどあつしと同じくらいの男の子を実家に残していたこともあり、あつしとその子を重ねていたのだろう。たいそうあつしを可愛がっていた。

このゆり子の膝に抱かれた写真が今も残っている。
色がたいそう白くゆり子から漂ってくる言いようもない良い匂いをあつしは、遠く離れ時が経った今も覚えている。当時の遊郭の女たちは、いつも身体を綺麗にするために風呂に必要以上に入ったものだ。遊女の身体ぐらい清潔なものはなかった。なにしろ、身体は遊女たちにとって商売道具なのである。手より足、くるぶし、かかと、指、お客は細かなところまで見ているものなので、念入りに身体の手入れをさせられるのだ。むしろ、堅気の女の方がそのようなことは気にしないため、どこか酸っぱい匂いさえ漂う。そんなものだった。

あつしに優しいゆり子だったが、あつしの兄に対しては、さほど親密に接することがなかったようである。
それは、やんちゃで誰をも笑わすようなあつしの陽気な気性をこよなく愛してくれたからでもあるが、あつしの兄はどうやら遊郭のオンナ達を心よく思っていない様子なのは幼いあつしにもわかるくらいで、兄はいつも彼女らに話しかけられると気の無いそぶりでいつもどこかへ消えてしまうのだった。
小一時間経ってだろうか、鳥居の向こうの森紅園の方から通りを横切り何やら声が聞こえて来た。

「東雲楼(しののろう)のやり手婆だよ、あつしさん、あたしゃもう失礼しますね」

そういうと、それまで、あつしの絵を描いているのを見ていたゆり子は、通り過ぎざまにやってきた婆と連れに軽く会釈をして行ってしまった。やり手婆はゆり子を見送りながら言った。

「あら、あつしさんまた絵かいでらんだが」

「んだ」婆にそれだけ言うとあつしは何事もないように絵を描き続けていた。

やり手婆のマリは歳は五十を過ぎたくらい
以前は弘前の紙漉町(かみすきまち)の売れっ子の娼妓であったが、年季が明けて外で所帯を持ったが旦那が軍隊にとられ、戻って来なかった。
ひとりで生きていくには外の世界は世知辛い、そしてマリは青森に流れて来るとやり手ばばになったのである。

娼妓の年季が明けての身の振り方はいく通りかあるが、外の世界に行っても結局馴染めないで戻ってくる女も多い、マリもそんな女のひとりだった。

やり手ばばあはいわゆる、遊郭で客引きをする役目のおばさんだが女の子の管理や身の回りの世話もする役目の女でもある。

「やり手ばばあ」という言い方は江戸時代の遊郭用語「遣手」に遡る。「遣手」の異名が「遣手婆」だったのである。

「遣手」は妓楼の二階を拠点として、遊女の介添役を務めると同時に総取締役みたいな存在で遊女と客に目を光らせるのだ。
娼妓が接客するのは二階の部屋だが、客と遊女との揉めごとをまとめるのも「遣手」の役目だった。「心を遣い手を遣う職分」であったことから、「遣手」と呼ばれるようになったと言うが、客が付かないといって遊女を叱咤しアドバイスするのも「遣手」の仕事だった。客のつかない東雲楼の娼妓が毎日このオンナの元にやってきては泣きつくのである。

その日も娼妓の一人の為に時間を割いて浪打稲荷の境内までやってきていたのだ。連れられてきたのはいつもの悦子だった。

客が決まる売れっ子の娼妓はほとんど放っておいても客がつく、決まってあぶれるのは容姿も悪い悦子のような女である。

悦子は目が悪いせいもあるのだが、目やにでもたかっているようなけったいな目付きに加え、ずんぐりむっくりした大柄なその風体容姿では男など寄り付くわけもなく、遊郭のタダ飯食いなどときつく言われるものだから、やりきれず、居場所もなく肩身も狭いので、こうやって婆のもとに毎日通ってきて泣きついて頼みごとや愚痴を言いそして神社にお参りするのである。
遊郭の1日の始まりは必ずと言っていいように女たちは神社にお参りにやってくる。遊郭に住む住人たちは信心深いものが多いのだ。

「いいかい、今日こそわたしが羽振りのいい若衆旦那を捕まえてやるから、お泣きでないよ」

遣手婆のマリが悦子にこえをかけた。

「うわーん」
「仕方ねぇ、このご時世しかだねべさ」

泣くとより一層獣か何かのような悦子の雄叫びに似た泣き声が響いた。

あつしは、もうたまらん退散、退散などと思いその辺に広げていた画材道具を片付けていると、神社の右隣、あつしの家の二階の襖が半開きになるのが見えた。

カエデだった。あつしに軽く会釈をしてカエデは窓の欄干に腰掛けやり手婆と悦子の様子を眺めていた。間借りする前から多少の面識もあったのだが、カエデとは依然として軽く挨拶をするだけだった。

悦子はしゃくり上げて訴える姿が滑稽にも思えあつしも笑い出そうとしていると、二階にいたカエデが先に声を出して笑いだした。

「何みでるんずや!見せもんでねんだぞ」

婆がすぐに大きな声でカエデに向かって言った。

カエデはそそくさと襖を閉めてしまった。

「態度悪いおなごだじゃ」

婆は悦子の背中を摩りながら二階のカエデに向かい言った。

カエデは森紅園の中でも最も大きな松陰楼(しょういんろう)のお職だった。お職とはいわゆる売れっ子の娼妓なのだが、遣手婆のマリとは見世も違うせいもあって仲が良くはなかった。

襖の向こうのカエデには聞こえているだろう。いつもギクシャクしている二人の様子を見てきたあつしは何気なくそんなことを思った。

「あ、桜の花が咲いでる」

今まで泣き声をあげて泣いていた悦子がポカンと言った。婆とあつしは悦子の目線の先に桜の花を見つけた。

あつしは津軽にも春が訪れたと思ったが、幼心にも寂しい気持ちで咲いた桜を見ていた。

戦争が激化していて以来、去年はもちろん桜祭りには出かけていなかった。

今年も青森市の桜の名所として知られる合浦公園の観桜会は進駐軍が駐屯して開かれる見通しはない、弘前公園の桜祭りも、どうなるか未だこの時はわからなかったのだ。

二階のカエデの部屋のふすまは締められたままであった。

いつもならこのくらいの時間にカエデはずっと外を眺めている。
何を見ているのか、ゆり子は間借りしたその日から決まってこの時間、境内をずっと見つめていた。それは誰かがここを訪れるのを待っているようにも見えた。

弘前の桜が満開に咲き誇っていた。

昭和21年5月4日、桜の満開の弘前城公園は多くの人で溢れかえっていた。見世物小屋も開かれていたし多くの市民が春の訪れを満喫していたのである。

弘前城公園は空襲などの被害を受けなかったとはいえ、その復活の早さは、市民の花見への渇望の表れともいえた。戦争のあいだ多くの津軽人が、弘前公園の桜と本丸から望む岩木山を精神的な支えとしていた事が、この人出にも現れているのだろうと、この時の事を振り返るとあつしは思うのだった。
あつしも父と母、兄や妹を連れ立って青森から弘前城公園にやってきていた。

弘前駅から歩いて人の波と一緒に弘前城内に入ると、桜を楽しむ人々で天守閣がそびえる弘前城公園は溢れかえっていた。

普段は遠出など自ら行うことのない神主の父が、どこかで観桜会が開かれると聞きつけた。家長の花見にいくという申し出に異論を唱えるものなどいるわけもなく、家族はたいそう喜んだことは幼い記憶に鮮明に残っている。

この時の事を思い返してみると、父も子供達が桜観会に行きたがっていたことを知っていたのであろう。そして、戦争の間抑えられていた家族の気持ちを察した精一杯の優しさがその日の花見なのだろう。そのように思えるのだった。

弘前公園は、ソメイヨシノ、シダレザクラなど様々な桜が咲き誇っていた。人の営みとは関係ない自然の流れ、場内には多くの人で溢れかえっていた。

園内の四の丸演芸場ではいろいろな催しが開催され、桜も見事であるが砂ぼこりもひどく、ものを広げてたべれるような場所を探すのにたいそう苦労し、あつしの一団が席を確保できたのは桜の下でなく場内の外れだった。

とにかく歩き疲れ、どこにでもいいから腰掛けたい。この時の事をあつしは今でも鮮明に覚えている。

しかし幸いなことに持参のゴザを広げて座りこんだ位置から、雪を被った秀麗な岩木山の姿が見えた。

「見事なお山が観れただけでも来た甲斐があるね」

父のその言葉に誰もが頷いた。

津軽では桜の季節はトゲクリ蟹とガサエビ(シャコ)、花見酒で乾杯する宴に出されるのはこの二つと決まっている。だがこの日、トゲクリ蟹もガサエビも用意できるわけがなかった。重が開かれるのを今か今かと待っていたあつしは、重が開けられると期待はしたが、その分ガッカリしたのだが、母が用意した精一杯の馳走に最初は戸惑いながらも飛びついたのは、子供心の優しさだった。

「アレアレ、あつしさん元気なこと、皆さんも、今日はたくさん用意していますから、お腹いっぱい召し上がってくださいませね」

母はそう言うと、別に大事に携えてきた風呂敷包みから、何か取り出すと
丁寧に父の前に差し出した。

「ほう濁酒か、これは良くもこの時節手に入ったものだ」
「この日のために御用聞きさんにずっと頼んでおいたのですよ」
「それはありがたいことだ。どれどれ、一献いただくとしよう、みなもどうだい」

上機嫌で酒を振る舞う父を見ながらも、あつしは弁当にかぶりついた。

普段は酒もあまり飲む事もない神主の父も、どうやらこの日ばかりは別なのだろう。一緒に行った奉公人も、勧められるままに盃をからにして愉快に笑っている。母はそんな父を実にたのしそうに見ているのをあつしは満足に眺めていた。
9
ねぶた祭り復活

らっせーらー! らっせーらー!
らっせ らっせ らっせーらー!!

大きな太鼓の音と共に、ねぶた祭りの独特な掛け声が旭町に響きわたった。

日華事変の起こった1937(昭和12)年から第二次世界大戦が終結した1945(昭和20)年までの9年間、ねぶた祭りは、中止されていたが1946(昭和21)年7月29日、復興もままならない中、ねぶた祭りが旭町で復活した。

進駐軍に気兼ねして西洋への敵対的な表現はもちろん行なわれず、また刀を持った ねぶたも事実上制作不能だったにもかかわらず、ねぶたが青森の夜に繰り出されたのだ。

旭町は戦災を免れた地域であったのも、大きいのかもしれないが、ねぶた祭りの復活を望む声が街の人たちの間で自然と上がり、かつてねぶたを作っていたもの達が集まって、こんなときこそねぶたを復活させようと話し合われ、計画が進んでいたのだった。

人形型ねぶたは、元々は竹を曲げて骨組みを作り、そのまわりに紙を貼り付けていく、物資の調達はとても難しかったが、いつしか祭りの復興と青森の街の復興は一つになる、そんな想いが人々の心の中に生まれていき、その共通の想いが、難航したねぶた制作を進める原動力となっていた。

ねぶたの制作はちょうどあつしの家、つまり浪打稲荷の前の森紅園の入り口の空き地で行なわれた。

母があつしにいった。

「あつしさん、こんなはやく起きて又、ねぶた見に行くんだが」
「うんだよ」
「毎日、行って飽きないのかい」
「飽きるわけねーべさ、毎日ねぶたできでいってるのに」
「まあ、まあ、津軽の男衆だの、ねぶたバガさ、なるんでねべがの」
「ねぶたバガ?」
「うんだ、ねぶたのごとばっかり考えてる人のことさ」
「んだら、ねぶたバガさはならねじゃ、ねぶた以外ももっといろいろ考えてるはんで、ならねぇ」

あつしは朝ごはんも早々に毎日ねぶたを作る小屋に見学にいった。ねぶた小屋には、町内の手の器用な人たちが集まり、少しずつではあったが日増しに完成に近づいているのが、見ていてとても楽しかったのだ。
額に汗をして制作に取り組む大人達が輝いて見えた。

ねぶたの運行が近づいて来ると、次第に街も活気づいてくるのが、子供心にもわかった。花屋では金魚ねぶたが作られ、あつしも自分で扇型のねぶたを作って兄や父の手伝いも借りてロウソクで灯りをともした。

扇型のねぶたに描いた絵が暗い中で光に照らされると、ゆらゆら揺れ動き幻想的な輝きを浮かび上がらせ、そのなんとも言えない不思議なちいさなねぶたをみていると、本物のねぶたが待ち遠しく思えていった。

制作に取り組み数ヶ月ほど経って、町内にねぶたの、魂入れが行なわれる知らせが届いた。

あつしももちろん、父や兄と一緒にねぶた小屋に駆けつけてみると、そこには町内の人たちや、森紅園の女達のほとんどが集まっていた。もちろんカエデや、ゆり子の姿もその中にいた。

頃合いを見計らったように人々の前で灯りが灯されると周囲からオオーッという歓声が沸き上がった。

あつしも驚愕の想いで初めてねぶたの姿を見ていた。
勇壮で光を放つねぶたが、まさにあつしの心を捉えたその瞬間であった。
ねぶた完成の数日後の7月29日 ダンダダンダ、ダダンダダン、ダンダダンダ、ダダンダダン、心の中に届いてくるような太鼓の音と笛の高らかな音とともに、ねぶたが旭町で運行を開始した。

ねぶたは台車に. 乗せられていて20人ほどの曳き手がつき、扇子持ちと. 呼ばれる誘導 係の合図でグルグル回され、観客に混ざり見ていたあつしの、すぐ目の前に来ると、より近くまで迫ってきた。嬉しいような、怖いような不思議な心のざわめき、コレがねぶた祭りなのか、そう思っていると、ねぶたの後ろで元気いっぱいに飛び跳ねているハネトの歓声があがった。

アッ!らっせーらー! らっせーらー!
らっせ らっせ らっせーらー!!

ねぶたの踊り子やハネトは声を張り上げ、ガガシコを叩き、狂ったように踊りまくって、唖然としあつしはその様子を見ていた。

「こんな気違いみてだ大人の姿は初めて見た」

隣で一緒に見ていた父があつしの方を向いて言った。

「ねぶた祭りは、この青森が、ここに生きた人々が、飢饉(けがず)のときも戦争の時も必要とした祭りだ。穢れ(けがれ)をはらい、豊穣を願う祭りだ。津軽に生きる人の抑えつけられた心が解放される祭りだ、津軽の人はこれまでこの祭りで自分たちの命の灯がこんなにも燃え盛っていることを確かめるんだよ」

あつしは父が言った言葉が良くわからなかったが、自分も大きくなったら、きっとあのようなハネトになるのだろうと思った。

ねぶたは旭町を練り歩くと森紅園に入っていった。
ハネトの様子がそれまでより、激しくなるのが子供心にもわかった。
遊郭の入り口あたりまで来ると、ハネトはものすごく高く舞い上がり、それまでの勢いをさらに増し、さらに高く夜空に向かい舞っている。

あつしは、初めて見たねぶたが終わったその夜、興奮して眠りにつくことができなかった。寝付くことができず、外を見ると森紅園の辺りはすっかり静まりかえっていた。キラキラと光り輝いていた光景はもうすっかり消え失せていて、そこには静まりかえった闇が横たわっていた。なぜかその光景が物悲しく思えしばらくその闇を見つめた。

ねぶた祭は、七夕様の灯籠流しの変形だ。七夕まつりは七月七日の夜に、けがれを川や海に流す禊の行事だが、ねぶた祭も同様にねぶた人形を川や海へ流す習わしがある。
七夕まつりの行事は全国各地でいろいろと型を変え、その土地独自の祭になったが、それらの中でも日本海側にねぶた祭に似た祭りが多い。日本海沿岸各地に伝わるこれらの祭りは昔、京の都の文化が日本海を伝わって、津軽へ運ばれたからだという。

明治時代に入って青森ねぶたは大型化したものの、途中知事による禁止令や解禁を経て青森市が戦災を受けた昭和二十年には中止されていた。翌二十一年には旭町のほか油川でも出された。いずれも進駐軍に気がねしながらの運行だったという。

青森にじょっぱりという言葉がある。ねぶた祭りを想う時あつしはいつもその言葉を思い出すのだった。
2015年夏、あつしは自身で最大の巨大ねぶたのクレヨン画を約3カ月で描き終えた。予定より2カ月ほど早い完成だった。ふすま4枚に描かれたその作品は横4メートル64センチ、縦が2メートル25センチこれまで描いたどんな作品より大きなものだった。パーキンソン病を発症し、数々の自身の障壁を乗り越え描いたその作品は、今、青森の青荷温泉の入り口に飾られている。躍動感あふれるねぶたは、闇に揺らめく津軽の心を描き切った未曽有のクレヨン画である。

 

あとがき

戦前、戦後と青森市は数々の試練を乗り越え
現在に至っておりますが、そこには、多くの人の尽力があります。
孫内あつしの過ごした青森とその時代は
モデルとなっている、孫内先生のお話を聞いて
孫内先生の5歳の姿と史実、そして架空の人物を登場させて
現実の青森の昭和20年の前後を自分なりにまとめて
書かせていただきましたが、特に孫内先生から伺った森紅園の
社会的弱者であった、女性達のことは歴史の中で風化していたので
多くの人に知って頂けたら、作者として幸いです。

「森紅園という、そんな場所があったという事実を
自分を通し知って頂けたら、とても意味があることだろう」と
下書きの原稿を持参して、お渡しした過日に孫内先生もおっしゃっておりました。

尚、作者としましては青森の経験したその姿が少しでも多くの方々に伝えられたられた本意ですが、史実につきまして、莫大な青森に関します資料を調べ、多くの当時を知る方にお話を伺いましたが、県史を研究されている方からは不備があるかも知れませんので、この場をお借りしてご容赦願いたい旨をお願いいたす所存です。何卒よろしくお願い致します。

最後に、本作を書かせていただくにあたり、快諾して頂いた孫内先生とご支援、ご鞭撻を頂いた方々に深い感謝を申し上げます。

作者 鈴木勇

 

参考文献

「ねぶた祭り」孫内あつし 株式会社トスカ刊

「敗戦」ー占領軍への50万通の手紙 川島高峰 読売新聞社刊

【写説】占領下の日本 敗戦で得たもの失ったもの ビジネス社刊

国民学校一年生 ある少国民の戦中・戦後 橋本左内 新日本出版社

新青森市史 通史第4巻 現代 青森市市史編集委員会

なつかしの津軽100景 いにしへ写真館 井上精三・藤巻健二 文小野いるま 北方新社刊

青森空襲の記録 青森市 1972年発刊

下町っ子戦争物語 早乙女勝元 東京新聞刊

なつかしの青森 庶民の歴史 淡谷悠蔵 東奥日報社

青森市町内盛衰記 肴倉弥八著 歴史図書社
遊郭 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/遊廓

性欲を満たすために行く場所ではなかった!? 意外と知られていない吉原の実態
http://www.excite.co.jp/News/woman_clm/20140910/Escala_20140910_3695336.html

肉体の防波堤
http://www.waseda.jp/sem-muranolt01/KE/KE0005.

特殊慰安施設協会
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/特殊慰安施設協会
吉見義明氏の『従軍慰安婦』の194-202ページ
http://lacrima09.web.fc2.com/figs/jugun-ianfu.html

青森大空襲
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/青森大空襲

青森空襲:知事が「逃げるな!」と避難民を呼び戻し、犠牲を拡大。
http://blog.livedoor.jp/shihobe505/archives/38766069.html

青森空襲を記録する会
http://aomorikuushuu.jpn.org

青森空襲の想い出
http://www.actv.ne.jp/~munakata/s_000210omoide.html

まかれた爆撃予告6万枚 青森空襲を体験
http://www.sankei.com/region/news/150807/rgn1508070014-n1.html